「ひとってさぁ、ほんといつ死ぬか分からんから、会えたときにできるだけ長く一緒に過ごしたいんよ。」
5年前のCavern Beatでのライブ後、先輩ミュージシャンが彼の自宅とは真逆の土地に住む私を車で運びながら言っていた。読書といえば「かいけつゾロリ」しか読んだとこがなかったらしいが、歌詞は直球でありながら繊細で、ステージは熱く心を突き動かしてくれる。絵に描いたような「人情味溢れる男」だ。太宰の作品の中でいくつかを勧めてみると、青空文庫で読み漁っては嬉々として感想を話してくれた。自身では冷たい人間だと言っていたが、そんなわけあるか!
少し遠くまで車を走らせ、糸島にある小さな神社で他愛もない話をした。あまり覚えていないが、小雨に打たれるトタン屋根の下でギターを爪弾いた。ちょうどこれくらいの季節の深夜2時だった。私は下駄を履いていた。
いつもは思い出さないこんなことをボーッと思い返している。冒頭の言葉が、何度も反芻される。
先月のライブに来てくれたリスナーさんが5月9日に急逝した。日が変わる前、15日が告別式だった。私は配信で彼を追悼した。
ライブの後に「MCは今まで見たアーティストの中でいっちばん笑った。MCの前の曲が好きだった。お世辞抜きで楽しかった。また誘って。」とDMをくれた。当たり前に、また配信で話をして、次のライブが決まったらお知らせをして、ライブに来てもらえるものだと思っていた。片付けている間に帰ってしまったから、次に来てくれたときには話をしようと思っていた。
この未来を知っていたなら、自分のステージが終わって片付けもそこそこに、とっ捕まえて「ありがとう」と言いたかった。話がしたかった。
自分の歌でも、うたっていることなのに。
更に今日は、配信で知り合ってから仲良くしてくれている名無弾が「ひとごろし」のカバー動画を掲げてくれていた。他人のフィルターを通ったあとの自分の歌を知ることは、通常ではできないことだ。彼女のうたう「ひとごろし」は、紛れもなく彼女のものだと思った。ただの見よう見まねではない。それが嬉しかった。
感情が、生きている実感が、押し寄せてきて、背を向けてもまわり込んでこちらを覗いてくるような、そんな日だった。うたっていると泣くことを止められなかった。私の心は歌の中で生きるのだと思った。
明日は福岡の友人と会う。できるだけ長く、一緒に過ごしたい。